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2019年05月12日

京大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」「数学の好きな人のために」「数学で何が重要か」 そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)

京大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)   ( 「谷山=志村予想」は、「志村予想」だった! 先生の「誠実さ、優しさ」)数学の統一理論にも貢献!
志村五郎 先生の 書籍 と 物語

志村五郎さんが亡くなられた。 
(志村先生は、何度も京都で「志村スクール」を開催し、講義をされました。
だから、京都にゆかりのある方に、特に、読んで欲しい。)

 といっても多くの読者にはピンと来るまい。一部には「谷山・志村予想」とか「フェルマーの大定理」といったキーワードと結びつけて、同氏の訃報を認識する人もあるだろう。

 また筆者などよりはるかに、彼の業績やその先の展開に通じた専門家もたくさんおられるはずだ。そのような内容に踏み込むつもりはない。

 ここでは、志村さんという一数学者の等身大の声として、私が認識した範囲に基づいて、とりわけ中学高校から大学初年級までの読者を念頭に、いくつか記してみたいと思う。

 また子供を京都大学(東京大学)などに進学させたいと思われる親御さんには、よく読んでもらいたいと思いながら記した。

 そのようなターゲットであるから、普段の文体とは異なる、本稿のような常体を取っている。これには、志村さん自身の文体が、そのような飾りのないものであることが一因している。

 なお念のため、筆者は生前の志村五郎氏に一面識もない。あくまで、その遺された仕事、しかもその中で、数学専門家向けではない、初学者や周辺専門家向けの著作に、大きく心を動かされた経験のある一読者として、記すものである。

 だが、それゆえに、広く一般向けのコラムとしても、多くの人、例えばファイナンスやマネジメントの数理やシステムに関わる読者にも、大いにお勧めできる内容を記せるように思うのである。

■ 志村五郎「最期の4冊」未来への遺言

 志村五郎さん自身に触れる前に、読書案内を記しておこう。ちくま学芸文庫として公刊されている「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊である。

 あらかじめお断りしておくが、筆者もこれらのすべてを完全に読了しているわけではない。

 数学の本を読むとは、紙と鉛筆を手に取り、一つひとつの命題を再現しつつ追い、可能であれば別解を導いたりしながら悪戦苦闘することを指すと思う。

 その意味では、最晩年のこの4冊だけを取り出しても、私は志村作品のよき読者ではないだろう。

 しかし、これらの書籍は十分平易に記されている。

 世は新時代だそうであるから、私は新世代に向けてこの原稿を記したい。とりわけ中学、高校生の読者に、受験だ何だというどうでもよい枠組みと無関係に、志村さんの遺言のような4冊に、若く感じ方の柔らかい時期に触れておくことを強く勧めたい。

 (幸か不幸か私は「大学入試頻出筆者」だそうで、このコラムを読んでいるティーンエイジャーが一定数あることを私は認識している)

 志村さんがこれらの本を公刊されたのは、彼が80歳から84歳にかけてのことで、この連休、5月3日に89歳で亡くなられたとのことだから、最晩年といって大きくはずれないだろう。

 長年プリンストン大学で研究され、達意の英文コラムなども米国の新聞に投稿しておられたから、本当に最後の原稿ではないだろう。

 でも、齢80を迎えるにあたって、このような「初学者」向けの丁寧な書籍を、しかも廉価な文庫という形で、さらに「書き下ろし」で出稿されたのには、背景があり、志村氏としての得心があったに違いない。

 また、これら「未来への遺言」的な書籍をちくま学芸文庫への「書き下ろし」として委嘱した編集者、それをサポートした版元の仕事を多としたい。

 この出版不況のおり、さらにどうでもよいエピゴーネンの跋扈する中、よくぞこのような書物をこの世に誕生させてくれたものだと、正味の賛嘆をお送りしたい。

 生前の志村氏は「癇癪」で知られたようで、その辛らつを極める舌鋒筆鋒には様々な逸話や批判もあるようだが、すでに亡くなった人であり、以下では一切、そうしたことには触れない。

 もとより故人を存じ上げないので、もっぱらその遺された仕事から、続く世代の若い精神に有効と思われるポイントを2、3選び、それについてのみ、記そうと思う。

■ 入試で問うべきものは何か? 

 まず前掲書のタイトル「数学をいかに使うか」に注意しよう。4冊の書物はすべて、この第1冊の基本方針で一貫している。つまり「使える」数学ということである。

 このように記すと、多くの読者が勘違いするだろう。例えば「大学入試で使える数学」であるとか、物理から金融まで、様々な「応用で使える数学」など、など。

 志村さんの、そういう「使える」に対するピシャリとした全否定はハッキリしている。第3冊「数学で何が重要か」の4章は「入学試験と数学オリンピック」と題され、<問題解き>の悪弊を明瞭に指摘しておられる。引用してみよう。

 「そこで私が気がついたのは悪い試験問題が非常に多いということであった」

 「私は予備校で3年ばかり教えていたことがある。そこの予備校のやり方に従うことになって、各大学の数学の入試問題を随分調べた。すると技巧的で何かうまいやり方を思いつかないとできない問題がかなりあった」

 「有名大学でなくそれほど競争が厳しいとも思われない大学が特にそうであった。入試問題などというものは基本的知識の有無と理解の程度を調べればよいのである」

 「そういう問題を適当なレベルで作るのは案外難しいのかもしれない。まさか出題者が技巧的な問題を作って得意になっているわけではないとも思うが」(「数学で何が重要か」p.28-29)

 ここから見えるのは、志村さんの極めて現実的な数学教師、あるいはアカデミシャンとしての堅実な定見である。

 「入試に役立つ数学」など論外で、その先の人生に役立つ数学の基礎をしっかり見て取れれば、入試などというものは十分だという、実に真っ当な、建設的な観点が見てとれる。続きを引用しよう。

 「当時私が提案して東大の入試問題になったものをひとつ書いておく(中略)」

 「『一辺の長さ1の正4面体ABCDの辺ABの中点と辺CDの中点との距離を計算せよ』。普通に考えれば10分とはかからないだろう」

 「多分1960年頃である。そんな易しくてよいのかと思う人もいるかもしれない。しかし易しすぎて失敗だったという記憶はない。今でもこの程度で通用するだろう。ほかの問題もあるのだから。」(同書p.29)

 まさに定見と思う。入学試験というものは、実は、1点でも点をやりたいと思って作られるものである。その事実を社会はもっと普通に理解し、受け入れるべきと常々思っている。

 なぜか? 

 逆を考えてみたらよい。すなわち、1点の点もやりたくない、とすれば、難問奇問、珍問愚問の類を並べ、受験生は軒並み0点の平野に死屍累々となることだろう。


 それで選抜試験として意味があるか? 

 ない。少しでもきちんと建設的に思考し、解答に反映させることができれば、その分を評価する・・・。

 これは入試などという人工的なビニールハウスだけの仕儀ではなく、その後の長い人生で、社会人としてあらゆる局面で通用する、不易流行と言っていいだろう。

 志村さんは、そういう意味で「数学をいかに使うか」と言っておられる。

 そして、その本来の攻略目標として、数学というもの、それ自身の本質的な問いに、スケールの大きな、またこの人ならではの、オリジナルな問題意識をもって取り組み、明らかに人類の数学史に貢献する成果を残して、89歳で逝去された。

■ 数学オリンピックへの警鐘

 志村さんの、極めて真っ当で健全な問題意識は、受験に特化したおかしな出題傾向のみならず「数学オリンピック」という制度にも警鐘を鳴らしている。彼自身の表現を引いてみよう。

 「数学オリンピックについて言えば、それで良い成績を得た人が実質的に得るものはほとんどない。単なる競争であって、ちょっと小・中・高校生の将棋や囲碁の大会と似ているところがある」

 「・・・ところが、数学オリンピックの問題はプロの数学者が考えていることとは全然関係ない。もっとレベルの高い問題をやっているわけではない。数学オリンピックのはすでに解答のある問題でもある」

 「私はテレビでそういう将棋大会の優勝者に向かってプロの棋士が『将来将棋を専門にやってゆくつもりですか』とたずねているのをみたことがある」

 「実際優勝者がプロになった例は少なくないと思う。同様に数学オリンピックの金メダリストに『将来数学者になるつもりですか』という質問がなされているかどうか私は知らない。また金メダリストがその後どうなったかも知らない」(同書p.31)

 志村さんの「使える」がはっきり分かる指摘と思う。

 つまり、数学オリンピックという特殊な競争ゲームに勝っても、またそれをマスコミなどがちやほやしたとしても、それはおよそ彼あるいは彼女のその後の生涯に直接「使える」ものではない、という事実を志村さんは淡々と指摘される。

 「試験場に行けばそこに問題が待っている。将棋大会に行けばそこに相手がいる。すべて受動的である」

 「ところが数学の研究者になるというのは自発的なものであって、しかもその自発性を持続させなければならない」

 「金メダリストになることはできてもそのような自発性がなければどうにもならない。そういう意味で数学オリンピックは真の意味の数学者の世界とは無縁である」

 同様のことは、アスリートのオリンピックにも言えるし、筆者の領分である音楽をはじめとする芸術にも完全に当てはまる。

 競争に勝つというのは、すでに解答が準備された温室のトラックレースで要領よく立ち回ることに過ぎない。新しいものを何か作り出す、本当の意味で歴史を開拓するのに「使える」ものでは全くない。

 では、志村さん自身はどのようなティーンの時期を過ごしたのだろうか? 

 志村五郎 1930年2月23日静岡県生まれ、2019年5月3日 大阪府没。プリンストン大学名誉教授。

 盟友で東京大学助教授に就任したばかりで自ら命を絶った谷山豊(1927-58)の問題を継承しつつ、独自の問題意識から発展させた「谷山・志村予想」は、40年後「フェルマーの最終定理」の証明に決定的に貢献・・・といった内容は、プロがお書きになる原稿があると思うので、ここでは触れない。

 前記4冊の第1冊「数学をいかに使うか」の134ページに興味深い具体的な出来事が記されている。

 「ここでひとつ、日本語の面白い本を注意しておこう」

 「正田健次郎 代数学提要 共立出版」

 「初版は1944年で戦中の困難な時代に何とか出版できたのであって、私は1945年戦後すぐに出た再版をその年の12月に4円20銭で買っている」

 「私は旧制高校1年のとき、これで代数学の初歩を学び、少ししてから van der Waerden の( Moderne Algebra Springer 1930)を読んだ」(「数学をいかに使うか」p.134)

 とある。細かな資料がないが1929年度生まれの志村さんが旧制中学を4年で修了して高校に進んだとすれば17歳になる1946年年度、つまり終戦の年15歳だった志村少年は中学生として、かなり高価な正田健次郎「代数学提要」を暮れに購入し、翌年これを読んだものと察せられる(志村「記憶の切絵図」筑摩書房の記載に準拠)。

  

 言うまでもなく、学校の授業も受験も、またなんとかオリンピックも関係ない。自分で読んだ。

 「この正田の書は1ページ21行、121頁の小冊子であるが、ともかくまとまっている。演習問題もある。今日このような簡便で小型な書物もあってよいと思う」(同上)

 志村さんは、自主的にマスターし、どうやら演習も自力で解いたであろう正田の書籍にも長短を指摘し、今日、教える必要のない部分ははしょったらいい、と「使える数学」を強調している。

 「旧制高校の代数学の教科書には三次方程式や四次方程式の解法が説明されていて、演習問題として次の三次または四次方程式を解けというのが少なくとも十五題以上あったと思う」

 「私はひとつも解いた覚えはない、もっとも何次の方程式でも、近似解を求めることはおそらく重要だから、それを簡単に教えるのはよいが、代数的解法にこだわるのは無意味である」

 「何でもむかしから教えてきたことを無批判に教えるのは愚劣であるが、鶴亀算や旅人算を教えたように『それを教えることになっている』と中々やめられなかったし、今でもやめられないのである」(「数学をいかに使うか」p.136)

 1952年、東京大学理学部数学科を卒業し、直ちに東京大学教養学部で教壇に立ち始めた若き志村青年は、旧態依然たる「使えない」解析幾何などを自主的に廃し、今日では標準的といえる線形代数の講義などに勝手にシフトさせ始めるとともに、20代前半からクロード・シュヴァレー、アンドレ・ヴェイユといった、関連分野で世界の先端を開拓していた当時の第一人者たちと問題意識を共有。

 25歳だった1955年9月、そのような環境下で同級の友人谷山豊が発表した「問題」を、谷山氏の不幸な早世後、厳密に定式化して「志村予想」(という表現を、あえてここでは用いたいと思う)に結実。

 30余年後、より本質的なこの「志村予想」が解決されることで「フェルマーの最終定理」も結果的に解けてしまった、というのが、実際の流れに近いように思う。

 
■ 初めももなければ終わりもない 数学の大河と向き合う

 さて、上の志村さんの引用後半に見えるように、この人の舌鋒筆鋒は鋭く、何事も微温を持ってよしとしやすい日本のアカデミアには全く不向き、国際社会でイニシアティブを取る第一人者だった。

 1959年、パリ~プリンストン大学出張から帰国、東京大学教養学部助教授として教壇に立つものの、そのレベルの低さに閉口、心機一転を期して61年大阪大学教授として転出する。

 しかし、俸給は欧米での非常勤の半額以下、子供も生まれ、思い切ってヴェイユに身の上相談。1962年、プリンストン大学客員教授として頭脳流出。

 1999年まで37年間、豊かな数学の地力を駆「使」して、つまり、使えるだけ使い倒して、1999年69歳で定年するまで、数学の女王などとも呼ばれる王道中の王道「数論」の中心課題に、莫大な業績を挙げ続けることができた。

 今日の日本の大学で急増しているような雑務からは自由な人生であったかと思われるが、細かな査読などにも心を砕かれ、本質的には懇切で優しく細やかな精神の持ち主であったことが、書籍の隅々から察せられる。

 ちなみに筆者は志村さんが米国に頭脳流出した年に生まれ、ティーンだった1983年の「モーデル予想」の解決、1984年にゲルハルト・フライの「谷山・志村予想が正しいならフェルマー予想も正しい」という予想(フライ・セール予想)が発表され、日本評論社「数学セミナー」誌などに関連の記事が並んだのをよく記憶している。

 筆者にはそれらを深く理解する能力は全くなかったが、のちに志村多様体のトップランナーとなる藤原一宏のような友人が同級生にあり、仕事をまぶしく見た印象のみ強く残る。

 志村さんの訃報として「フェルマーの最終定理」証明に貢献、を強調するくらい、多分、彼の精神に反することはないように思う。

 極論すれば「フェルマーの最終定理」という骨董品的な特例は「使えない数学」袋小路の一例に過ぎないと、何事にも冷静かつ過不足ない視線を注がれる志村さんが、相対的な意味や位置づけをもって、骨董品的な「フェルマーの定理」を軽く見られても、全く不思議ではない。

 「フェルマーの最終定理」は1995年、アンドリュー・ワイルズが「志村予想」を、やはり日本の数学者である岩澤健吉さんの理論を巧妙に用いて解決することで証明された。 

 しかし、それは数論の巨大な問題設定である「志村予想」の定理を証明する際の、ごく特殊な一例、系の一つとして「フェルマー」も示されたのであって、数学王道の本質としては「ζ関数の統一」など、個別の問題解きを超えた、始めもなければ終わりもない、数学という大河に向き合う人智の本質的な姿勢が決定的であると言うべきだろう。

 志村さんや岩澤さんは、正田健次郎を筆頭に当時の日本にも存在した本質的でコンパクトな議論から、そのような数学の本義を早い時期に学ばれた。

 私は正田教授にタッチの差で直接ご指導いただくチャンスを逸した経緯がある。親しい先輩たちから漏れうかがう正田さんの指導方針は、最初から本物に触れさせるというものであった。

 実は正田先生は最晩年、中学高校生の指導にあたっておられた。
 
  あえて実名を記すなら、かつて中学3年生だった微分幾何の宇澤達さん(名古屋大学教授)は、自由研究で考えた問題について正田先生に質問に行き、比較的読みやすい最先端の原著を手渡されるとともに、紹介された小平邦彦(1954年フィールズ賞)教授を訪ね、指導を受けることができた。

 しかし、当時の彼はその自由研究をまとめることができなかった。

 そんな宇澤さんが数年後、今度は自身が中学の非常勤講師として同様の指導をした中に、岩田覚君という少年がいた。岩田君は中三時代、やはり質問に行って宇澤さんから手渡された微分幾何の原著を高校1年次、自主的に学んだ。

 そこで頭を使い、モース理論と呼ばれる分野の系を自力で証明することができた。その自由研究で宇澤少年がまとめることのできなかった論文をまとめて賞も得た。

 岩田氏は現在東京大学工学部計数工学科の教授として後進の指導に当たっており、詳細は分からないが、同様の指導をしているのではないかと想像する。

 私は10学年ほど離れた両者のちょうど中間の学年に位置しており、独立してご両人からこの経緯を聞いていた。

 数学オリンピックのような出来合いの競争ではなく、数学という大河の本筋から、自分で見つけた問題について、成果を出すことができた幸運なケースの一つとして紹介したものである。

 正田健次郎氏の指導方針とその伝搬の成功例として思い当たったものである。事前にお断りせずご両人の御名前を挙げたが、弔辞であり、ご宥恕願いたい。

 1945年、空襲で焼け野原となった日本で、中学3年の志村少年が何を思って正田さんの本を手にしたかは分からない。高価な本を、少年は思い切って購入したことだろう。

 80歳を過ぎても価格を鮮明に記憶する志村さんの意識からそれと知れる。

 そして、紛れもなく確かなことは、その7年後、旧制高校と大学を卒業した志村氏が、1952年から東京大学の入試出題側に回るとともに、ヴェイユやシュヴァレーと丁々発止の創造的議論で白熱する第一人者に育った事実である。

 こうした経緯は決して偶然によるものではない。

資質ある少年を本物の環境に放し飼いにし、おかしな「餌付け」で「潰し」さえしなければ、勝手にすくすくと伸びることが分かっている。

 今回は記さないが、少年時代の岩澤健吉さんについても同様の経緯があったと仄聞している。

 数学史の王道にオリジナルな貢献を果たした、これら真の才能の育成を考えるうえで、大学入試の悪問や数学オリンピックなどによって醸成されかねない「問題解き」のメンタリティは、有害であって無益、木を見て森を見ず、大道に目を塞いで些事にこだわる「小人」のわざであると、志村さんは警鐘を鳴らされる。

 中国古典にも精通した志村さんのこうした書きぶりは、今日のSNS的悪平等の観点からは「上から目線」と誤解され、いわれのない誹謗中傷も受けた面があるように思う。

 しかし、大河を進む志村さんは泰然自若、悠々と「最期の4冊」を有り難いことに日本語で、日本の若い世代に遺して、先週瞼を閉じられた。大家を喪った。

 「今日このような勘便で小型の書物があってよいと思う」だけでなく、志村さんは有言実行で、 4冊も「簡便で小型」ながら、英語でオリジナルの数学論文が書き下ろせるようになるまでのエッセンスがすべて詰まった、若い世代の日本語読者に至宝のような、親しげな先輩としての創造メモ小冊子4点遺して、幽明境を異にされた。

 一大学教員として、こうした珠玉の書物にこそ触れてほしいと、私は昨日も教養学部の授業で学生諸君に勧めたが、本当にこれらを手にすべきは中学生、高校生であり、あるいは年齢を問わない「精神の数学少年たち」すべてであると思う。

 岩澤さんや志村さんのような「大志」をティーンの時代に身のうちに胚胎することは、どれだけ強調してもしすぎることがない。

 受験だ、オリンピックだといった、すでに解かれた問題の縮小再解決ではない、本質と向き合う経験をこそ、心も頭も柔らかいティーンの諸君に持ってもらいたい。

 志村さんの訃報に触れて強く感じた次第である。 


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参考

超難問「フェルマーの最終定理」証明の最重要人物である日本の数学者が死去
志村五郎 スケッチ700

Point
■360年間解かれなかった数学の難問「フェルマーの最終定理」は、まったく無関係に思われたある命題を証明することで解決されている
■その重要命題が日本人数学者の提唱した「谷山-志村予想」だ
■そんな世紀の難問の解決に寄与した偉大な日本人数学者、志村五郎氏が5月3日89歳で死去した
谷山志村予想「フェルマーの最終定理」700


平成の終わりと共に、一つの時代を見届けるかのように偉大な日本人数学者がこの世を去った。

志村五郎氏の名を知らなくても、数学の難問「フェルマーの最終定理」を記憶している人は多いだろう。

「フェルマーの最終定理」は1995年にイギリス生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されたが、実は「フェルマーの最終定理」は志村氏の提唱した「谷山-志村予想」を証明することで解決している。

志村五郎氏の死去に伴い、氏が解決に大きな貢献をした「フェルマーの最終定理」という難問について、できるだけ分かりやすく振り返ってみよう。

志村五郎氏の訃報については、5月3日にプリンストン大学より発表されている。


「フェルマーの最終定理」をめちゃくちゃ簡単に説明する


「私はこの命題について、真に驚くべき証明を見出したが、それを記すにはここはあまりに余白が足りない」

360年前、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマーはたったこれだけのメモを問題の脇に書き残してこの世を去ってしまった。

このツイッターにも投稿されていそうなフェルマーのメモは大変話題になり、以後この命題は「フェルマーの最終定理」と呼ばれることになる。

「フェルマーの最終定理」は、一見すると義務教育で教わる「ピタゴラスの定理」の拡張版だ。なんだか簡単に解けそうな問題にも見える。

この命題の「n=2」の場合が、直角三角形の辺の長さを求めるいわゆる「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」である。



しかし「n」が2なら無限に解が存在するというのに、この「n」が3以上の数字になると「x,y,z」を満たす解は一切存在しなくなってしまう。これがいわゆる「フェルマーの最終定理」の命題だ。

この問題を最終的に解いたアンドリュー・ワイルズは10歳の頃、図書館でこの問題を見つけて「俺なら解けるんじゃね?」と思ったようだ。それはそれでとんでもないお子様だが、しかしこれが大きな罠だった。

「n」が3以上の場合というのは、つまり無限に存在する「n」について、それぞれ解が無いと証明しなければならないわけで、これは非常に困難な証明なのだ。

以後30年以上、ワイルズはこの問題の呪縛に捕らわれることになる。

世紀の難問に光を与えた日本人

「すべての楕円曲線はモジュラーである」

またまた一般人には意味不明なこの一文が、「谷山-志村予想」または「志村-谷山-ヴェイユ予想」の主張だ。

ちなみに数学における「予想」とは、真だと考えられるが、証明することはできていない命題のことだ。「予想」が証明されるとそれは「定理」になる。

だから「フェルマーの最終定理」も厳密には「予想」になるわけだが、そこは証明できたと断言したフェルマーに敬意を払っておこう。

楕円曲線とは数論(数の性質について論じる数学の分野)における理論の一つで、解くと解が数列のような形で複数得られる。

一方モジュラーというのは、簡単に言うと四次元空間の無限の対称性について論じたものだ。
モジュラーの世界のイメージ

そんな説明じゃさっぱり意味がわからないよ! という人は、上のエッシャーの絵画「サークルリミットⅣ」を見てほしい。



この絵はモジュラーの理論を使って二次平面上に複雑な対称性を持つ模様を描いているので、この絵を眺めて「なんかこういう不思議なパターンを定式化するお話なんだ」と思ってもらえればいいと思う。

この楕円曲線とモジュラーはそれぞれの解がよく似た数列のパターンで得られるのだが、「谷山-志村予想」はこのよく似た解が似ているのではなくて、同じなのだと主張したのだ。

数学のまったく異なる領域の問題が、実は同一の概念を論じているというこの主張は、とても大胆で驚くべきものだった。

最初にこのアイデアを閃いたのは、呼称の中に名を連ねる谷山豊だった。しかし谷山はこのアイデアを思いついた数年後に自殺してしまう。盟友の死を嘆きつつ、そのアイデアを定式化したのが志村五郎だった。

「谷山-志村予想」は一般的にはあまり知られる機会のない理論だが、その後の数々の数学者たちのよる研究で、「フェルマーの最終定理」と結び付けられることになる。

フェルマーの最終定理は楕円曲線に変換可能であり、その解に対応したモジュラーは存在しない事が示されたのだ。つまり「谷山-志村予想」が正しければ「フェルマーの最終定理」はその命題の通りに解を持たないことになる。

二人の日本の数学者によって生み出された数学理論は、このとき長年の数学の難問の解決と直接結びついたのだ。

異なる数学の世界をつなげ、360年来の難問を解き明かした数学者たち


アンドリュー・ワイルズ氏 
無責任なフェルマーの証明宣言から360年。この難問は大勢の数学者たちの努力と挫折の末、1995年にアンドリュー・ワイルズによって「谷山-志村予想」を証明するという形で最終的解決を迎えた。

そこには数学の歴史を彩る様々な深いドラマがあった。

今、そんな数学の偉大な歴史に名を刻んだ一人の日本の数学者の人生が幕を下ろした。

50年以上前、自殺してしまった同僚谷山豊氏の偉大な閃きを定式化し、「フェルマーの最終定理」という数学の難問解決に寄与した志村五郎。彼は天国で谷山氏に良い報告をすることができただろう。

「フェルマーの最終定理」を巡る数学者たちのドラマに興味を持った人は、ぜひこの機会に『サイモン・シン著 フェルマーの最終定理 (新潮文庫)』を読んでみてはいかがだろうか。

フェルマーの最終定理 (新潮文庫) - サイモン シン 文庫 ¥853
フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫) / 「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社

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文系用読者:「教育者」としてのあの頃の感覚として読む
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フェルマーの最終定理 【著者】サイモン•シン(青木薫 訳) 【発行】新潮社(新潮文庫)

整数に関する問題は、問題を理解するのはやさしいが解くのはとてつもな く難しいことが多い。この本の表題ともなっている「フェルマーの最終定理」 の証明もそのような整数問題の1つであり、アマチュア・プロを問わず 300 年もの間、多くの数学者の挑戦を退けてきた問題である。1995 年最終的に 証明を成し遂げた勝者はアンドリュー・ワイルズという数学者であった。し かし、その証明への取り組みは試練に満ちており、7年間の隠密行動、そし て1度は証明できたと発表して、その後証明に穴があることがわかり1年余 りの間、公にさられた状態での穴埋め作業の末ようやく証明完了というドラ マが書かれています。谷山、志村、岩澤、肥田といった日本人数学者もからみ、困難な問題にチャレンジする人間模様を描いた物語として、一読を。

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理系用読者:「数学者」としてのあの頃の感覚として読む
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【書名】「解決!フェルマーの最終定理 現代数論の軌跡」加藤和也著、日本評論社


1993年6月23日に、プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言し、その後、証明の不備が見つかり、1年以上に苦考の末、1994年9月19日にその修正に成功したこの期間に、著者が証明の解説として数学セミナー読者向けに書いたものを集めたものである。厳密性はないが、極力丁寧に、正確に伝えようとする、著者の誠実さと、理解の深さが伝わってくる。原論文の 1. A. Wiles; Modular elliptic curves and Fermat's last theorem, 2. R. Taylor, A. Wiles; Ring theoretic properties of certain Heck algebras にも、整数論にも、非常に惹きつけられる内容だった。購入時にも読んだと思われるが、詳しく覚えていないところをみると、理解しようとはしていなかったのかもしれない。むろん、今回も十分な時間をかけて読んだとは言えないが。

以下は備忘録

「砂田利一『基本群とラプラシアン、幾何学における数論的方法』」(p.37)「ワイルス『ぼくは、フライとリベットの結果を知ったとき、風景が変化したことに気がついた。(中略)この時まで、フェルマの最終定理は、何千年間もそのまま決して解かれることがなく数学がほとんど注目することがない数論の他の[散発的かつ趣味的な]ある種の問題と同じようなものに見えていた。フライとリベットの結果によって、フェルマの最終定理は、数学が無視することのできない重要な問題の結果という形に変貌したのだ。(中略)ぼくにとって、そのことは、この問題がやがて解かれるであろうと言うことを意味していた』」(p.67)「清水英夫著『保型関数I, II, III』、志村五郎著『Introduction to the theory of automorophic functions』、Knapp『Elliptic curves』、河田敬義著『数論I, II, III』、藤崎源二郎・森田康夫・山本芳彦著『数論への出発』、上野健爾著『代数幾何学入門』、J.H.シルヴァーマン・J.テイト著(足立恒雄〔ほか〕訳)『楕円曲線論入門』、土井公二/三宅敏恒著『保型形式と整数論』、肥田晴三著『Elementary theory of L-functions and Eisenstein series』、吉田敬之著『保型形式論: ─現代整数論講義ー』、N.コブリンツ著(上田勝〔ほか〕訳)『楕円曲線と保型形式』」(p.123,4)「田口雄一郎さんの手紙に『Deligne さんの家はこの道の始まりのところ、森の入り口にあります。Deligne さんといへども、森羅万象の真理の最奥に至る道のほんの入口のところにゐるに過ぎないといふ、これは自然による卓抜な比喩であると思われます。ところが、恐ろしいことに彼の子供たちは毎日この道を通って森のむかうの学校に通ってゐるらしいのです。』とありました。フェルマーからの350年は大進歩でしたが、人類が続いてゆけば、それは今後何千年の数学の序曲であり、何段も何段も自然の深奥への新しい段階があることでしょう。」(p.239)「ガウス『どのように美しい天文学上の発見も、高等整数論が与える喜びには及ばない』ヒルベルト『数論には古くからの問題でありながら、今日も未解決のものが少なくない。その意味で、多くの神秘を蔵する分野であるが、他方、そこで展開される類体論のような、世にも美しい理論がある』」(p.245)「岩澤健吉『代数体と、有限体上の一変数関数体は、どこまでも似ていると信じてよい』」(p.246)「志村五郎は『整数論いたる所ゼータ関数あり』と述べたが今その言葉に『ゼータ関数のある所 岩澤理論あり』と続けて考えたい」(p.261)『ゼータ関数のある所 肥田理論あり』ともいえる。


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参考
ラングランス・プログラム= 志村・プログラム
 
数学ミステリー白熱教室 (第1回から第4回)動画(フェルマー予想 から ラグランズプログラム
https://www.youtube.com/watch?v=octSjc1Sk2U&list=PL6iz98WS2YpRGR2egcplCqKnx6PBr3czn

数学の大統一に挑む - エドワード・フレンケル 単行本 ¥2,376

内容紹介
xのn乗 + yのn乗 = zのn乗

上の方程式でnが3以上の自然数の場合、これを満たす解はない。
私はこれについての真に驚くべき証明を知っているが、ここには余白が少なすぎて記せない。

17世紀の学者フェルマーが書き残したこの一見簡単そうな「フェルマーの予想」を証明するために360年にわたって様々な数学者が苦悩した。

360年後にイギリスのワイルズがこれを証明するが、その証明の方法は、谷村・志村予想というまったく別の数学の予想を証明すれば、フェルマーの最終定理を証明することになるというものだった。

私たちのなじみの深いいわゆる方程式や幾何学とはまったく別の数学が数学の世界にはあり、それは、「ブレード群」「調和解析」「ガロア群」「リーマン面」「量子物理学」などそれぞれ別の体系を樹立している。しかし、「モジュラー」という奇妙な数学の一予想を証明することが、「フェルマーの予想」を証明することになるように、異なる数学の間の架け橋を見つけようとする一群の数学者がいた。

それがフランスの数学者によって始められたラングランス・プログラムである。

この本は、80年代から今日まで、このラングランス・プログラムをひっぱってきたロシア生まれの数学者が、その美しい数学の架け橋を、とびきり魅力的な語り口で自分の人生の物語と重ね合わせながら、書いたノンフィクションである。
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1958年 - 国際数学者会議招待講演(エジンバラ)
1966年 - 国際数学者会議招待講演(モスクワ)
1970年 - 国際数学者会議招待講演(ニース)
1977年 - アメリカ数学会コール賞数論部門:"Class fields over real quadratic fields and Heche operators", Annals of Mathematics, Ser. 2, Vol. 95, 1972; "On modular forms of half integral weight", Annals of Mathematics, Ser. 2, Vol. 97, 1973に対して
1978年 - 国際数学者会議招待講演(ヘルシンキ)
1991年 - 朝日新聞社朝日賞:整数論の研究
1995年 - 藤原科学財団藤原賞:アーベル多様体の虚数乗法論と志村多様体の構成
1996年 - アメリカ数学会スティール賞(生涯の業績部門):重要かつ広範な分野におよぶ数論幾何学と保型形式の業績に対して
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東大受験必読、数学者・志村五郎の遺した言葉 (ちくま学芸文庫 「数学をいかに使うか」(2010) 「数学の好きな人のために」(2012) 「数学で何が重要か」(2013) そして「数学をいかに教えるか」(2014) の4冊)


300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去 (「整数論」の世界的権威)

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参考

2015年11月
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ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、代数的整数論におけるガロア群の理論を、局所体およびそのアデール上で定義された代数群の表現論および保型形式論に結び付ける非常に広汎かつ有力な予想網である。同プログラムは Langlands (1967, 1970) により提唱された。


ラングランズ・プログラム(英: Langlands program)は、日本の「志村五郎氏」による進展が大きい。

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https://www.youtube.com/watch?v=KjvFdzhn7Dc&list=PL6PDU-7OA2gdvu3jhxo1QABgR9SGeCkCb



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完全理解 「フェルマーの最終定理」の研究  (数学・数理科学分野) (「フェルマーの最終定理の証明」の理解へ)


kyoto00glo at 06:05│Comments(0)

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